(荒れ狂う嵐の夜、木造帆船のキャビンを想定した空間。真鍮でできた黄金色の丸い時計が、重力による傾きを常に水平に保つ「ジンバル(二重環)」の金具に支えられ、船の激しい揺れとは無関係に、静寂を保って水平に佇んでいる。静かに、しかし力強く「カチ、カチ」と1秒ずつ秒針を刻む真鍮製の「マリンクロノメーター(海洋時計)」のクローズアップ動画)

皆様, こんにちは。シェルマンでございます。

前回の第2話では、17世紀オランダの天才ホイヘンスの物理学的発見と、それを完璧なアートへと昇華させたアーミン・シュトロームの美しき「オープンワーク」の世界をご紹介いたしました。同じ時代、日本が鎖国という静かな眠りの中にあった頃、西洋への唯一の窓口として大躍動を極めていたオランダの凄みにも触れさせていただきました。

さて、本日お届けする第3話ですが、その旅の水先案内星は、太陽系で最も巨大な質量を誇る、あの王者の星「木星(Jupiter)」です。

ギリシャ・ローマ神話では、神々の最高権力者「ジュピター(ゼウス)」の名を冠するこの星。 実は大航海時代、見渡す限りの漆黒の海に投げ出された船乗りたちが、夜空を見上げ、自分の現在地を知るために最も頼りにした守護の星でもありました。これまで、「宇宙の秩序を地上に再現する芸術」として生まれた時計は、この大航海時代という過酷な現実を境に、「船乗りの安全と、船の運命を守るための、極限の信頼性」という、もう一つの過酷な運命を背負うことになります。

本日は、一切の無駄を廃し、ただ「実用における精度」に真摯に魂を捧げた、ドイツ・ハンブルクの名門のお話をさせていただきます。

▍1秒の狂いが、船の運命そのものを左右した時代

皆様は、もしご自身の腕時計が、1日に「1分」遅れたとしたら、どうされますか? 「まあ、スマホで合わせ直せばいいか」と思われる程度ではないでしょうか。ですが、今から200年以上前、大海原をゆく帆船の船長室で、もし時計が「4秒」狂ったとしたら。 それは、船が目指すべき港の位置が「1マイル(約1.6キロ)」ズレるということを意味していました。

GPSもインターネットもない時代、海の上で現在地を知るためには、太陽や星の角度と、「基準となる港(グリニッジ天文台など)の正確な時間」を比較して、計算ではじき出すしかありませんでした。 もし、時計の精度が大きく乱れてしまったら、現在地を見失い、浅瀬に乗り上げ、あるいは食料と水が尽きて遭難するリスクを孕んでいました。

つまり、大航海時代における「正確な時計(マリンクロノメーター)」とは、現代で言う「GPSシステム」そのものであり、乗組員全員の安全な航海を預かる、最も厳粛な「ナビゲーション装置」だったのです。

もちろん、機械式時計ですから、スマートフォンやクォーツ時計のような「絶対的に狂わない1秒」を刻み続けることは物理的に不可能です。しかし、だからこそ当時の時計師たちは、絶え間なく揺れる船の振動や、過酷な温度変化の中でも、機械として可能な限りの安定性を保ち、高精度を維持する「実用の極致」を追い求めました。

その伝統を1878年の創業から頑なに守り続けているのが、ドイツの『WEMPE(ヴェンペ)』です。


▍メーカーではなく、リテーラー(時計宝飾商)こそが市場を支えるという真実

ここで、少し時計業界の「舞台裏」のお話をさせてください。

皆様が「素晴らしい時計ブランド」と聞いて思い浮かべるのは、自社で時計を組み立てている「マニュファクチュール(製造元)」だと思います。 ですが、実は、ヨーロッパ、特に時計先進国であるドイツやスイスにおいて、時計の文化を最も力強く、そして知的に支え続けてきたのは、メーカーではなく、「リテーラー(ジュエラー/時計宝飾商)」と呼ばれる存在なのです。

リテーラーとは、単に仕入れた時計を並べて売る「小売店」ではありません。 彼らは、貴族や審美眼を持ったコレクターたちに寄り添う「美の目利き(キュレーター)」です。 「このブランドの技術は本物だ。私たちが世に出そう」 そうやって、メーカーに対して妥協のない高い基準を提示し、時には共同で新しい美を創造しながら、時計の歴史の舵を取ってきたのが、名門リテーラーの誇り高き姿なのです。

そして、ドイツ・ヨーロッパにおいて、その頂点に君臨し続けているリテーラーこそが、この『WEMPE(ヴェンペ)』なのです。

ヴェンペのバイヤーたちの目は、極めて審美眼が高く、妥協を許さないことで知られています。「世界中の優れた時計をセレクトしてご紹介するだけでは、私たちの『精度と品質に対する理想』を100%形にすることはできない」

そう考えたヴェンペは、なんと、自分たち自身で最高峰の精度を検証するための「天文台」を丸ごと所有し、ついには自社の名を冠したオリジナルブランド『WEMPE』から、自社製ムーブメントを搭載したフラッグシップシリーズ『クロノメーターヴェルケ(CHRONOMETERWERKE)』を立ち上げてしまったのです。 リテーラーとしての究極の誇りと、圧倒的な審美眼が生んだ、極限のシリーズです。

▍グラスヒュッテ天文台と、逃げ隠れのできない「ドイツ規格」

ヴェンペが再建し、所有するその聖地こそ、ドイツ時計の聖地ザクセン州の山奥に佇む「グラスヒュッテ天文台」です。 ここでは現在、ドイツで唯一の「公立のクロノメーター(歩度規格)検査」が行われています。

時計マニアの皆様なら、「クロノメーター(高精度時計の証)」と聞くと、スイスの「COSC規格」を思い浮かべる方が多いかもしれません。 ですが、このグラスヒュッテ天文台の検査は、スイスのそれとは「決定的な違い」があります。スイスのCOSCが、ケースに収める前の「ムーブメント単体」をハダカの状態でテストするのに対し、ドイツの規格は、実際に文字盤や針をケースに収め、風防を取り付けた「お客様の腕元へと届く、完成品の形」で15日間にわたってテストを行うのです。

これ、時計を作る側からすると、信じられないほどに緻密で厳しい検査です。 なぜなら、ハダカの状態でどれほど良い成績を収めていても、針を載せ、ケースに入れ、ガラスをはめる際のわずかな歪みや重みの変化で、時計の精度は容易に影響を受けてしまうからです。 完成品でテストをされるということは、言い訳も逃げ隠れも一切できない、まさに「真の実力」を丸裸にされるということ。

WEMPEの『クロノメーターヴェルケ』シリーズは、この極めて実用的で誠実なグラスヒュッテ天文台のテストをすべてクリアし、文字盤に誇らしき「CHRONOMETER」の文字を刻んでいます。針の太さ、インデックスの視認性、ケースの仕上げ。 そこには、奇をてらった飾りは一つもありません。あるのは、大航海時代のマリンクロノメーターから直系で受け継いだ、「実用時計としての極限の信頼性を追い求める」というプロフェッショナルの矜持だけです。

▍荒波を生き抜く、大人のための「揺るぎない知性」

スマートフォンの画面を見れば、誰でもノーコストで、1秒の狂いもないデジタルデータ(記録)が手に入る現代。

だからこそ、一切の無駄な装飾を削ぎ落とし、「実用精度」というたった一つの目的のために、天文台の厳しい試練を乗り越えてきたWEMPEの時計を腕に巻くこと。それは、社会という荒波の中で、自らの審美眼と知性を信じ、凛として生き抜く大人の、静かで揺るぎない自負(ステータス)の表明そのものです。 「私は、ただ流行に流されるモノは身につけない。本物の信頼性だけを、手元に置くのだ」という。

これこそが、流行の変遷(記録)に流されることなく、世代を超えて、傷跡さえも愛おしい「アンティーク」へと育っていく、本物の道具の姿なのです。

▍次回予告:天体観測と、世界初の「記録者」

ドイツの質実剛健なリテーラー・ヴェンペが極めた、命を守るための「実用の極致」。 しかし、時を同じくした18世紀後半から19世紀、フランスの宮廷の傍らでは、全く異なるアプローチで「時間」を極めようとした天才がいました。

彼の名は、ルイ・モネ。 優れた時計師であると同時に、生粋の「天文学者」でもあった彼は、星の運行を1秒の何百分の一という精度で「記録」したいという、凄まじい知的欲求に取り憑かれていたのです。彼が、天体観測のために発明した、世界初の「時を止めて記録する機械」とは? 海洋時計が「安全」を求めたのに対し、ルイ・モネは「星の美しさ」をどう記録しようとしたのか? そして、彼が文字盤に閉じ込めた、遥か宇宙からの「贈り物」とは何だったのか?

次回、【第4話】宇宙の破片を宿す芸術 ── 天体観測のために生まれた、世界初のクロノグラフ

燃え盛る情熱の星、および本物の隕石の故郷でもある「火星(Mars)」のロマンをマクラに、工芸と天文学が奇跡の融合を果たした、ルイ・モネの芸術世界をご紹介いたします。

どうぞ、お楽しみに。

シェルマンでした。

シェルマンオフィシャルサイト

1971年にアンティークショップとして創業したシェルマンは、パテック・フィリップをはじめとしたアンティークウォッチの名品の数々や美術工芸品ともいえるアンティークジュエリーを中心に展開してまいりました。
そして現在は、大手メゾンに属さず時計づくりに励む独立時計師のユニークな作品、独自の信念やこだわりを持って製作される現行ブランドの時計、複雑機構を搭載したクォーツ式のオリジナルウォッチの開発・製作など、アンティークの枠を越え、時代や流行を越えて受け継がれる名品をコンセプトに、幅広いジャンルの作品を取り扱っています